◆あんな話こんな話◆ 來田淳

 
廃虚のコンバット
家から一キロほど離れた中学校の隣に、戦争中爆撃を食らって廃墟になった工場跡があり、
「コンバット」が放送されていた頃は、殆ど毎日のようにそこで戦争をしていた。
大きなコンクリート製の倉庫とその傍の小さい建物の他は残骸付きの平地で、所々地下道
も残っており、広さはン千坪あった。
「サバイバル・ゲーム」という言葉が無かった時代なので、「戦争しょうら」というのが、
仲間たちとの合言葉だった。
武器はすべて手作りだった。
皆で手分けしてどこからともなく調達してきた木材や鉄パイプ(これは近所の水道屋さん
から夜陰に乗じて盗んできた端材)を、学校が引けてから暗くなるまで鋸やノミで加工し、
何日もかけて「カービン銃」や「シュマイザー」を作った。
僕の学習ノートは、どの教科も武器のスケッチと漫画で満たされていた。
手作りの銃は、工作が難しい発射機構は始めから諦め、木製の台座に鉄パイプを固定した
だけの単純なつくりだったが、中でもKの作品は芸術的な出来栄えだった。
Kは絵を描かせても右に出るものが無く、彼が描いた戦争劇画などはプロとしても通 用す 
るほどレベルの高いものだった。
二人で一冊作ろうといって一緒に劇画を描き始めたこともあり、彼は快く付き合ってくれ
たが 、力量の差は歴然としていて、どうしても彼と並ぶことが出来なかった。

完成した銃を手に手に僕らは街路を行進し、戦場に着いた。
ルールは無い。撃たれたと思ったら「ぎゃー!」と叫んで倒れるのだ。
弾薬は「2B弾」、それと最近見かけなくなったが「ダイナマイト」と呼ばれる少し大型の
 爆竹。時には煙幕花火やロケット花火も使われた。マッチ箱に2B弾の先端を擦りつけ着
 火する。 それを銃口から挿入し、構える。硫黄の臭いが漂う。M1カービンが火を吹く。
パスーン! ギャー! グエー!
Mが地下道に逃げ込んだ。弾薬をポケットいっぱいに詰め込んで追いかける。薄暗い地下 
道は背丈ほどの深さで、何本もの通 路に枝分かれしていて、それぞれ十メートル前後で行
き止まりに なっているが、奥の方は目を慣らしてもなかなか見えないほど暗い。
「きっとこの先にいる」と踏んだ僕は、ダイナマイトを数本束ねて火をつけ投げ込んだ。
次の瞬間、閃光と轟音の中でのたうちまわるMの姿が闇の中に浮かび上がった。
地下道の音響効果は抜群だった。
再び舞台は地上へ。鉄梯子を上って砦に立つ。
「オッ!」民間人だ。
やばい。父だ。首からカメラをぶら下げている。
皆、何を思ってか、一瞬身を伏せて沈黙した。
僕らが隠れたことに気づいた父は、今にも笑いだしたい腹をこらえて知らん顔して歩いて
いる。
そのうち、理由も無く伏せていることが何となく気恥ずかしくなった小隊は、やがて互い
に顔を 見合わせ、へへへと笑って立ち上がった。
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右端で死んでいるのが僕

怪我の功名
戦争に明け暮れた僕らの廃墟も、道路が拡張され、プールが出来、グランドが出来・・・
と、徐々に姿を消していった。
遊び場の消失に寂しさを感じながら、それもやがては見慣れた風景になっていった。
プールが出来たのは幸いだった。なんせ近くの川は、工場や家庭の廃液で貝も棲めないほ
ど汚くて泳げない。
海も近かったが、一度行ったきりでその後製鉄所が占拠してしまい、浜辺も埋め立てられ
て立ち入り禁止になった。
廃墟跡に新たに出来たプールは、水は緑味を帯びて汚かったが、管理人がいないのをいい
ことに泳ぎまくった。
当時の僕は遊ぶことしか考えなかったので、夏休みも終わりの頃、夏ばても相俟ってとう
とう栄養失調になり、口内炎を起こして医大に入院した。
この病気は強烈だった。
始まりは口の中に茄子色の血袋がいくつか出来ただけだったが、それが弾けると一気に口
の 中全体に広がった。就寝前に唇の間に、グリセリンをたっぷり塗ったガーゼを看護婦さ
んが挟んでくれて、それから寝るのだが、朝になったらそのガーゼが血と膿とで完全に癒
着していて、剥がそうとすると出血して痛いのなんの、顎から喉まで流れ落ちる鮮血を、
関係の無い 医師までが真剣な目で珍しそうに見入っていた。
これが何日か続いた。
少し元気が回復してくると、退屈でいてもたってもいられなくなって、ラジオにリクエス
トしたり、友達に電話をかけて見舞いに来させたり、それも大部屋にひっきりなしに来た


しかしこの二週間の入院のおかげで、夏休みの宿題を出さずにすんだ。



要注意児童
野崎小学校から河北中学校へ。一学年約270人の中で三名、「要注意児童」として申し送
りされたのがいた。
僕と、Mと、Nだった。
僕の場合はともかく、後の二人はかわいそうだった。ただ単に成績が悪くて貧乏で教師に
反抗的だったという理由以外思い当たらない。
Nについては一度教師と取っ組み合いの喧嘩をしているのを見たことがある。理由は判ら
ないが、自分から人を殴るような奴でないことは知っていたので、余程腹に据えかねるこ
とがあった に違いない。    
心やさしい連中なのに、周りからはいつも悪く言われていた。
またある日、学級委員を選ぶときに手を挙げ「M」と推薦したら、担任はあからさまに顔
をしかめて「そんな・・・」と、取り合わなかった。
それでも一応このままではまずいと思ったのか、担任はMに尋ねた。
「M。選ばれたら委員になるか?」
Mは当然のようにかぶりをふった。
しかし選ばれるかどうかは別問題として、人並みの権利が認められなかったことに、Mも
後で憤慨していた。
学級委員になる為には、成績がよくて金持ちで従順でなければならなかったのだ。
いつかこのルールを打ち破ってやると、その時思った。

河北中学校に入学して、この年に他校から転任して来た向井先生が担任になった。
とてもやさしい先生で、一日目か二日目に教室で机と机の間を歩きながら僕を見つめ、「來
田、頑張れよ」と声を掛けてくれた。
胸が温かくなった。
その数日後、向井先生は死んだ。
新任の歓迎会の席で、心臓発作を起こされたのだ。
これはショックだった。
訃報の夜、僕は窓から暗い夜空を眺めながら涙を拭いた。
後で聞いた話だが、向井先生は僕の担任を買って出てくださっていたのだ。

向井先生が死んだ。
あの日先生から言われた一言、「頑張れよ」を僕は何度も反芻した。
その声のやさしい響き、あの眼差し。「頑張れ」の意味は何だったのか。少なくとも、勉強

先生は、「そのままでいいから頑張れ」と言ったのだ。
そしてその教えは今も頑張って守っている。
小さな特攻隊
僕は蜂が大嫌いだ。
刺されでもしたら、猛烈に痛くて一週間以上腫れている。ムカデは刺されても小便のひと
かけで平気だが、蜂はだめだ。
その蜂に一度だが集団で襲われたことがある。
隣のOさん宅の物置に蜂が巣を作って奥さんが困った顔をしていたので、僕が退治してや
ると 粋がって棒の先で巣を叩き落した。
そこまではよかったのだが、その後、巣があった元の場所に数十匹群がっているところを
更にちょっかいを出して突付いたものだからワッと一斉に逆襲してきた。
恐ろしかった。
Oさん宅の物置は家の一部をなしており、戸は鍵が掛かっていて地面から約三十センチの 
隙間があって、そこから腹這いで潜入したのだが、頭の周りを飛び回る蜂を払っていると
逃げ出すことが出来ない。
「タスケテー!タスケテー!」と、恐慌状態に陥りながらも物置から脱出したとき、こち
らに向かってくるOさんの姿が見えた。
そのまま意識が遠のき、次は布団の上にいた。
気を失って倒れた僕の頭上で舞っている蜂を払いのけて運んでくれたらしい。
結果的には顔や頭を集中的に八箇所刺され、鏡の中の顔はドッジボールのように脹れてい
た。
額を押すと、指の形がそのまま残った。
数日して痛みが減り余裕が出てくると、顔のあちこちを凹まして下からライトをあてたり
して 愉しんだが、学校へ行くのが嫌だった。

それから何週間か経った盆の頃、母と墓参りに出かけたとき、一匹の蜂が飛んできた。
その蜂は一直線に近づいて来たかと思うとそのまま僕の頭を刺して飛び去った。
蜂は攻撃されない限り滅多に人を刺さない。一度刺したら自分も死ぬのだ。
「テレパシーで仕返しされたんや」と、母は言った。
僕は痛んでくる頭を押さえてうずくまりながら、心の中でこの小さな特攻隊に敬礼した。
                
しかし後で聞いたがのだが、一度刺したら死んでしまうのは蜜蜂の雄だけで、足長蜂は何
度でも刺すらしい。
許せない。


フラッシュバック
 
ある日子供の運動会に行った。
青く澄んだ空と太陽の下で、スピーカ ーから 流れるBGMを聞きながら、地面に座って子供たちの競技に興じていたその時、目の前数十センチに数人の女子児童の太股が出現した。
それは樹齢百年の大木のように見え、思わず後退った。僕の目は、完全に小学校五年生に戻っていた。 あの頃の女子は巨大だった。 僕は五年の時、給食時間に「ちょっと来い」と講堂の裏に連れ出され、女ボスを含む六年生の女ばかり5〜6人に取り囲まれたことがある。
何が原因なのか全く憶えていないが、いつものように何かいらんことをしたのだろう。使用中の便所に爆竹を投げ込んだか。あるいは風上から胡椒を撒いたか…。
男同士の喧嘩はしょっちゅうしていたし、相手がどんな攻撃を仕掛けてくるか、どの程度までやるのか分かっていたので、相手の数が多くても大して怖くなかったが、女は分からない。
ましてこれだけの数で袋叩きにあったら…死ぬかもしれない…、と、恐怖がよぎった。
その場はできるだけ相手を刺激しないようにのらりくらりと時間を稼ぎ(昼の休憩時間が一時間以上に感じられた)、そうこうしているうちに、一人の女の子がうまく立ち回ってくれたので僕は怪我をせずにすんだが、正直恐ろしかった。
それからというもの遠くにまで注意を払い、できるだけ彼女らを避けて歩くようになった。

でも、その時の危機を救ってくれたひとつ年上の女の子に対しては仄かに恋心が芽生え、高校に通 うようになってからも、彼女の時間に合わせてバスを選んだ。
悲惨な先客
横浜で友人のご夫妻から中華料理をご馳走になり、暖かい季節で、だいぶお酒も入ってい 
たため、宿泊先のホテルで腹を出したまま朝まで眠ってしまった。
翌朝、新横浜駅に着いてから、少し遅い朝食になったが、熱いてんぷら蕎麦と冷たいとろ
ろ蕎麦を食べた。
それから間もなくして急に、立っていられないくらい気分が悪くなってきた。
屁をこいたら「ミッ」と音がした。
「もしや・・・!」
やばいことになった。
僕の脳裏に、あの中学生の頃の悲惨な思い出が蘇った。
食事中に屁をこいたら、全部出てしまったのだ。
その時は家の中だったので、母親に嫌な顔をされただけで済んだが、母はそのことを僕が
いる前で、お向いのひとつ年上の女の子に報告してしまった。なんて親だ。
あああの悪夢が、また起きてしまった。
僕は顔が引きつるのを堪えながら、トイレを探した。が、無い。
一番近くに見える売店まで歩いてゆき、少し離れた位置からトイレをたずねた。
教えてくれたとおりに一直線に歩いていくうちに、屁とは明らかに異なる臭いが仄かに漂
い始めた。入り口が近づいてくる。もし、塞がっていたら・・・もうそこから先を考える
ゆとりは無かった。
幸い奥のボックスがひとつ空いていた。よかった。
普通の速度で入り、ゆっくりドアを閉めた僕は、急いでズボンをおろし、用を足した。
そして深くため息をついたあと、下着を処分する為に備え付けのゴミ缶の蓋を開けた。
一番上に捨てるのも気がひけたので、目立たぬようにと、汚いものを指先でひとつひとつ
つまみ出していくうちに、「うっ」と息が詰まった。
ゴミ缶の底から出てきたものは、僕と色違いのトランクスだった。

それ以来僕は、熱いてんぷら蕎麦と冷たいとろろ蕎麦は一緒に食べないようにしている。
病院へ行った
ある日急に咳き込むようになった。
ことに頭上のエアコンから冷気が下りてきたり、寒暖の差を感じるときなど顕著で、電話
をしていても咳き込んで、仕事に支障をきたすようになった。
心配した妻に連れられて、大学病院へ診察を受けに行った。
なぜ一人で行かなかったのかというと、病院が嫌いだからだ。病院へ行くつもりで家を出
ても、違うところへいってしまう確率が60%以上あった。それと、聞き漏らしてはいけ
ないポイントを、記憶力のよい妻にしっかりと聞いておいてもらうためだった。

順番が来て妻と二人で診察室に入り、僕は症状を説明する。
「タバコは吸われますか?」
と、先生が聞いた。
「はい。一日五本位ですけど」
「原因はそれです。タバコをおやめなさい」
一日五本のタバコが原因とは思えなかった僕は、返した。
「僕は、なるべくタバコを吸うようにしてるんです」
「なんでですか?!」
先生は、怪訝な顔をした。
「タバコは、ぼけ防止に効きますから」
「そんなことはありません。タバコなんて、百害あって一利無しです」
「でもタバコを吸っている人に、ぼけている人はいないでしょう?」
「タバコを吸う人は、ぼける前に死ぬからです」
「でも、痴呆症の人に、タバコを吸っている人もいないでしょう?」
「痴呆症の人は、タバコを食べるからです!」

一瞬、どう返していいのか分からなくなった。
少し間をおいて、こんどはお願いした。
「先生、せっかく来たんですから、何かお薬ください」
ガス室にて
 
僕はサウナやエレベーターの中で屁をこく奴は許せない。そんなことをするのは公徳心のかけらもない不埒千万な奴だ。
かつて行きつけのスーパー銭湯で脱糞騒ぎがあり、いやまあこの話はやめておくとして、そんなことをつらつら思い出しながらエレベーターに乗ったとき、ふとおならが出た。
俗に言う「屁をこく」という動作だ。あはは…

ドアが閉まる前ならそのまま外に出たのだが、あいにく遅すぎてエレベーターは降下をはじめた。その日の屁はいつもより臭かった。
このまま一階までノンストップで降下し、下で誰も待っていないことを願ったのだが、二階まで来て、止まった。
ドアが開き、男がひとり乗り込む。
男は一瞬、僕を一瞥して不快な顔をした。 エレベーターは、それから何を思ったのかまた上昇をはじめた。最初に乗った僕も、この男の人も、屁に気をとられてか、@階のボタンを押していなかったのだ。
エレベーターはそのまま八階まで上昇して止まり、新たに三人が乗り込んだ。
二階で乗り込んだ人は、「ワシではないぞ」と言わんばかりに、鼻をすする。
僕も鼻をすすった。そしてさりげなく@階のボタンを押した。
エレベーターは、また四階で止まった。
そこで二人が乗り込んだ。
密室には屁の臭いが充満しているにもかかわらず、誰もそのことを話題にしない。
永い時間が経過し、エレベーターはやっと一階に着いた。
ドアが開くと、数人が待っていた。
中の乗客は三人四人と鼻をすすって外へ出て行った。

もちろん僕も。
ミミズの呪い
ミミズに小便をかけたらちんちんが腫れるというのは迷信ですというのは嘘だ。僕は腫れ
た。
あれはまだ小学校に入る前、朝から晩まで田舎を走りまわっていた頃の話だ。
誰かから聞いたミミズの話を、僕なりに実験するつもりで土の中からミミズを掘り返し、
しこたま小便をぶっかけたのが事の発端だった。
それから間もなくのことか、あるいは翌日のことか時間の幅は覚えていないが、見事に腫
れた。
その形は、上から見ると右のピクトグラムの様に
なっていた。
僕は幼心にも自分なりに一境地を拓いた満足感に
ハイになりながら、近所(と言っても民家が少な
かったのでかなり遠くまで)の知っている人知ら
ない人に「ミミズが怒った!」と言って見せてま
わった。

人がやらないことに挑戦して得た勲章であったが、小便しようとすると灼けるように痛く、
また出るときに扇形シャワー状態になり、やがて不自由を感じるようになった。
もうそろそろ元通りに戻ってほしいと思っても、一向に回復する兆しはなく、僕は事態を
深刻に受け止め始めた。
ひととおり近所に知れ渡った頃、木の陰で悩んでいると、農作業姿の知らない女の人が田
んぼの畦道を僕の方へ歩いてきた。
その人は僕のパンツをおろしてピクトグラムを確認すると、木の根っこを掘り返し、二三
匹のミミズをそっと自分の掌にのせた後、近くにある真水をその上に垂らしながら僕の代
わりにミミズに謝ってくれた。そしてミミズの泥をきれいに洗い流した後、再びもとの土
の上に優しく放した。
「もう大丈夫や」
と、立ち上がってその人は言った。
それから間もなく、腫れは嘘のようにひいた。

この日以降僕は同じ事を二度と試していないが、あれは決して迷信なんかじゃない。
疑ってかかる人がいるなら自分で試してみればいい。
ただし、救いの女神が現れるとは限らないぞ。
 P 005
チンチン電車
ある夜、田舎の家で夕食を終えた後、小学校低学年の二人の息子と、妻と父と母の六人で、
四方山話に耽っていた。
子供たちは親たちの話を聞き流しながら、めいめいに座ったり寝転がったり画用紙に絵を
描いていた。
父は、キャンディの缶を抱いていた。僕は酒を飲んでいた。
話題は、僕らが結婚した当時の京都に流れていった。
「あの頃はまだ東大路をチンチン電車が走ってたもんね」と、妻が言った。
「えっ!うそ!」
子供たちは手を止めてこちらを向いた。
「ほんとうよ」
「そうや、昔は和歌山でも町の真ん中チンチン電車走ってたんやで」と、母。
「へー!」
と、二人は感動している。
のどかだった昔の風景をそれぞれに浮かべながら、話題は戦中戦後に拡がっていった。
やがてふっと話がとぎれた時、あいかわらず黙々と絵を描いている二人の子供たちの方に
目が行った。
子供たちが無心に描いていたのは、チンチン電車の絵だった。

それがどんな形状なのかを想像しながら………。
無人島へ
 
電話が鳴った。受話器を取ったら川村からだった。
「おー 俺やー」
「おー 何やー」
「ヒマけー?」
「ヒマや」
「あんなー どっか行かへんけー」
「行こかー」
「無人島どーや?」
「ええなあ」
「どっか 知ってるけー?」
「お前知らんのか?」
「知らん どっかあるやろ」
「そやなー ほな探しに行こかー」
という訳で、その翌朝、愛用のカワサキW650RS(通称『W3』)に二人乗りして、四国
方面へ出かけた。

四月の始めで、まだ風は少し冷たかったが、天候はよく、道も空いていた。
普通なら地図を調べるものだが、二人ともそういう考えは浮かばず、海岸線を走りながら
島影を品定めしていった。
高知の漁村に知り合いがいて、何年ぶりかでそこを訪ねた。
その知人は「磯崎巌」さんといって、名前も人柄も百パーセント海の男だ。
「泊まって行きー」
僕らの顔を見るなりそう言ってくれたけど、まだ昼過ぎだったし、無人島も見つかってい
なかったので、お昼ご飯だけご馳走になった。
メインの鍋は、今朝獲れたというマンボウの内臓の水炊きだった。庭の陽だまりでは、サ
メが口をあけたまま死んでいた。
マンボウ鍋は脂が適度にのって、歯ごたえもよく、美味だった。

「たしか、大島は無人島やったなあ」
磯崎さんが教えてくれた大島は、周囲十キロもある釣の島だ。往路から見えたのだが、と
ても無人島とは思えない立派な島だった。
早々に昼食のお礼をいって方向転換し、港に向かった。フェリーなどないので、釣り舟をあたっ
ていくと、一隻だけ船頭さんのいる船があった。
釣り客を迎えに出る時間ではなかったが、頼み込んで出してもらった。
洋上を走ること三十分。島が近づいてきた。



古い採石場の跡が見える。海に落ちる斜面は急な一枚岩。海水は真っ青だ。船底のガラス
を透してテーブル珊瑚が見える。っと、その先の水面に、どう見てもチンチンにしか見え
ない大きな岩が屹立していた。「御神体」と船頭さんが言う。
船は波の穏やかな入り江にはいり、古い崩れかけたコンクリートの桟橋に停泊した。
エンジン音が消えた後は、外海の遠い潮騒と、梢を渡る風の音以外何も聞こえない。
「ええなあ…」
「そやなあ…」
僕らはこの清閑の地に見惚れてしまった。

その後92年までの間に五回この無人島に渡った。
ある時は猛烈なヤブ蚊や、血を吸う無数の浜辺の虫に苦しめられたが、野趣満点の島の魅
力は今も変わらない。

では、『秘密の島のアルバム』へ………




-あんな話こんな話- つづく
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