◆あんな話こんな話◆ 來田淳

 
静かなる伴侶
親父は昔、書斎で蜘蛛を飼っていた。
飼っていたと言ってもかごに入れて餌を与えていたわけではない。放し飼いで適当に何かを食べて自活していた。
見たところ蜘蛛がいちばん落ち着いているのが父の書斎で、主の膝で丸くなっている猫のようだった。蜘蛛が書斎から出てきて移動するとき、父はいつも踏まないよう家族に注意を喚起した。
気分転換に出てきた蜘蛛は、襖を斜めに横切ったり、気がつけばじっと天井に張り付いて家族の会話に聞き耳を立てたりしていた。
色は濃い灰褐色で、足を拡げた横幅は十センチ近くあり、走るときには、カサカサと音がした。
いきなり首筋を這われると鳥肌が立ったが、僕はこの蜘蛛のおかげで、毒虫とゴキブリ以外の生き物はなんでも触れるようになった。

ゴキブリはだめだ。だけど小型のものはまだ愛嬌があって、肉の切れ端などを与えると用心深く考え込んだりして、ある程度意志の疎通がはかれる。
最近長男がゴキブリの飼育を始めた。
そのことをクイズにして二男にメールで送った。 「お兄ちゃんが新しいペットを飼い始めました。さて次のうちどれでしょう。1,ハムスター。2,小鳥。3,ゴキブリ」
しばらくして返ってきた答えは「コックローチや」だった。
兄弟とはよくできたものだ。

あのときの蜘蛛の子供たちはどうしているだろう。
「あんたらみんなへんやわ」
眉間に皺を寄せて、妻が言った。



陣痛

ある夜半の一時ごろ、急に胃が痛くなって目を覚ました。
キリキリと針で刺すような痛みが、四十五秒続いて二十五秒和らぎ、また痛み出す。その繰り返しが延々と続いた。
胃潰瘍かと思い、むかし横井庄一さんがそれで治したという「湯たんぽ」を試してみたが、一向に回復する気配がなく、一睡もできないまま夜明けを迎えた。
妻は陣痛みたいだと言った。
自分でもこれは放っておけないと思い、滅多にないことだが病院へ行くことにした。
朝一番、痛む腹を押さえながら前かがみで車を降り、手続きを妻に任せて待合室のソファーにうずくまった。
診察を待つ間、検尿を済ませたが、目の前がくらくらするほどの苦痛だった。
診察室では背中を曲げてベッドに横たわったまま問診と血液検査。腹が痛いのに何で注射器で血を抜くのかと思ったが、逆らわずに従った。検査の結果が出るまでの間、胃のあたりは相変わらず45秒の激痛と25秒の軽い痛みが繰り返している。これは要するに、患部は痛みっぱなしなのだが、痛みが持続的かつ限界に達していたため、一定の間隔をおいて脳内からモルヒネ物質が分泌されていたのだと思う。
血液検査の結果、原因はわからなかった。
胃カメラで中を見てほしいと頼んだが、あいにくカメラは故障していて、明日にならないと修理から返ってこないので、明日もう一度来てくれという。(冗談じゃない)
妻は以前、我慢強かった僕の父が、大腸ガンが破れて腹膜炎を起こしているのに、病院で医師に苦痛を必死に訴えず一週間近くがんばり、結局それが遠因となって術後の経過が悪くて死んだことを悔やんでおり、医師の前に立ちはだかって、僕が死んだら先生の責任だと言って医師を脅した。
その傍で、僕の陣痛は絶え間なく続いていた。

主治医が他の医師達と治療方法を協議している間、一旦待合室に戻ったが、しばらくして無精髭にボサボサ頭でカラカラとよく笑う医師がやってきて言った。
「この間週刊誌で読んだんやけど、あなたのは森繁久弥さんがやられたあれとちがいますか」
(『あれ』とは何か・・・。)
「ちょうど夕食とってから5時間経って痛み始めたでしょう。あれですよあれ。私もまだ見たことないんで、覗いてみましょう」
「胃カメラは、あるんですか?」
「新しいのは修理に出してるけど、古いのがある。口径が大きいけど辛抱して」
胃カメラを飲むのは初めてだった。口径がどうのという点が少し気になったが、新型の細い胃カメラを明日まで待っているわけにはいかなかった。
「もしあれだったら、早くせんとあきません」と言われた。
すぐに準備してもらい、ストレッチャーで検査室に向かった。白衣の天使が金属の引き戸を開けると真っ先に胃カメラが目に入った。直径は1センチ以上あった。それを見たとき、一瞬だが痛みが消えた。左を下にし、壁にあるTVモニターと反対側を向いて横になる。医師は黒い胃カメラの胴にゲル状の痺れ薬を塗り、それをクネクネと動かした。
貴重な機会なので、僕の周囲には院内のインターンが10人ほど集まっていた。手が空いている者全員だったろう。
「は〜い、口開いてください」
最初はえづいて失敗した。痺れ薬を塗り直しもう一度入れ直す。堅い蛇のような物体が食道を通過して胃に達すると、抵抗不能の無力感に襲われた。今僕は完全に無防備だ。
暫くして医師は叫んだ。
「あ!あったあった!主治医の先生呼んできて!」
と無精髭の先生はハイになっている。
間もなく主治医が入ってきた。
「やっぱりこれですよこれ。『アニサキス!』です」
「・・・お見事」と主治医。
「ぎょうさんおるわ。みんな一匹づつ持って帰る?」
「ええ、ください」
「小さい瓶にホルマリン入れて持ってきて。これから取り除くからね。ちぎれないようにせんといかんから。あなたも記念に持って帰る?」
僕は胃までカメラがつながっているので言葉が出ず、手で返事した。目からは少し涙が流れていた。こういう状況での涙は、痛みや意志とは関係なしに出るようだ。
そんな体勢ながら、なんとか後ろのモニター画面を見たいと眼球を動かしたが、どうしても最後まで視界に入らなかった。
体長2センチ前後の真っ白な寄生虫は、全部で13匹いた。
それらがどいつも僕の胃の壁に、尖った頭を食い込ませてウリウリ蠢いていたらしい。

処置が終わると痛みは嘘のように消えた。
命の恩人である無精髭の先生に丁重にお礼を述べたあと、病院の勧めで念のため2〜3泊することになった。
鬱陶しい注射はごまかしようが無いのでベッドの上で嫌々受けたが、虫下しは正常な腸内バクテリアまで殺すため飲まずにそっと捨てた。
二日目の定時注射の後、病室を抜け出して銭湯へ行ったついでに会社を覗くと、みな沈痛な顔で黙々と仕事をしていた。みんな僕の不摂生な日常を知っているだけに、きっとガンになって緊急入院したものだと勝手に思っていた。

そもそもの原因は、スーパーで買った安い加熱食用のサーモンを、「生で食えないような商品は売らないだろう」と勝手に思ってそれ以上考えもせず、刺身にして食ったのが間違いだった。


リンク集・アニサキス編↓

http://jp.youtube.com/watch?v=zzL_dJWvH6E
http://ja.wikipedia.org/wiki/アニサキス
http://www.kiyoukai.jp/niwahosp/aniskis/anisakis.htm
http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k01_g1/k01_05/k01_5.html
http://www2.ocn.ne.jp/~jinkei/anisakis.htm

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