※2
実はこのとき、某広告代理店のA氏から持ち込まれた企画で、船会社が旅費のすべてを負担し、こちらがタダで次号の紙面を提供するというバーター取引があり、4名のスタッフが韓国旅行を済ませていたため、船会社がA氏を通じて「本を出さないなら告訴する」と言ってきた。
もともとはA氏が社用名目で旅行したかったことから出た提案で(本人は会社の許可が下りず行けなかった)、こちらも日頃世話になっているスタッフの慰労にと乗った話。記事面を埋める以外に何の得にもならない企画だったが、こうなってみてハタと困った。でもいまさらブーブー言ってもはじまらない、非はこちらにあるのだから。
船会社の社主は某放送局の大口株主でもある。○○フェリーがうちを詐欺で告訴、なんてニュースで流されたら翌日から食い上げだ。
かといってそのために赤字覚悟で次号を出すわけにもいかない。第一相手方は「もう待てない」というところまできていた。

考えられる解決方法は、ひとつしかなかった。
どこかの出版社で記事を拾ってもらうことだ。
思案した後に、「この人なら」と信じてダイヤルを回した。
エッセイを連載して戴いていた松山猛さんだ。
何といっても「ポパイ」「BRUTUS」の創刊者。そして「オラは死んじまっただ」フォークルの生みの親。運よく日本におられた。
松山さんは、事情を説明すると快く引き受けてくれ、心当たりを探すからと電話を切って数分後、早速受け入れ先を決めて電話をくれた。
当時コナミ出版が発行していた情報誌「Nanda」の編集部にわたりをつけてくれたのだった。
嗚呼神様仏様松山猛様!
それからすぐに編集部にアポをとり、翌日上京して直近の号で3頁もらった。幸い記事がなじむ誌面だった。
僕はその足で大阪に行き、船会社の担当者と会ってこの解決案で了承を得た。
ほっとした。この夜の酒はほんとうに旨かった。

しかし話は決まったものの、フォトグラファーの仕事は完璧だったが、ライターの文章はどうにもならず、結局行ってもいない僕が二人の話をつなぎあわせて一から書き起こすほかなかった。