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タヒチ紀行 
〜あるいは僕は如何にして考えることをやめ頭の線が切れるはめになったか〜

初めて飛行機に乗り初めて行った国が、タヒチだった。
チケットはある日突然降ってきた。
その頃僕はよく京都音楽文化協会の事務所に出入りしていたのだが、そこで僕を可愛がってくれていた事務局長がある日ふと思い出したように「來田君、きみタヒチ行かんか」と言った。「うち誰も行ける者おらんから、きみ行き」と、局長はその場でタヒチ観光局に電話を入れて、音協のメンバーの替わりに彼を紹介するからと、僕が出している出版物のプロフィールを先方にアピールしてくれた。
出発まで日がなかったので直ちにパスポートとビザの申請をし、書類が整ったのは出発の直前日だった。
僕が加わることになった日本からの一行十数人はみなタヒチ観光局からの招待客で、僕のルームパートナーは英文毎日記者のM氏だった。マスコミ関係者の他はツアー会社の経営者や企画主任などで、一地方のミニコミ誌の発行人は僕一人だった。

初めて見る高度1万メートルの空は鉄色に輝いていた。
日本から9千キロ、羽田からホノルル経由で合計12時間の空の旅を終え、機は夜のパペーテ空港に着陸した。
機体のドアが開いた瞬間、くちなしとアーモンドのような甘い香りの空気が機内に流れ込む。タラップを降りはじめてもその香りは一帯に漂っている。そして激しい打楽器のリズムに乗ってタヒチアンダンスが繰り広げられ、少女達の手から生の大きなレイ(花輪)が僕たちの首にまわされた。さっきの空気の匂いはこれだったのだ。この瞬間、僕の瞳孔は開き頭の線が何本か切れた。



潮風とバーボンビール「HINANO」

軽く冷房の入った部屋で目を覚ますと、外は明け白んでいる。
ガラス戸を開けベランダに出てみると、椰子林のシルエットが夜明けの空に浮かんでいた。労働者の朝は早い。7時を過ぎれば道路は渋滞する。バスでパペーテの町に着き、やたら喉が渇いていたので、ジュースを売っている店へ行く。昨夜ホテルのラウンジでビールを飲み、その時にもらった大きなコインが何枚かあったのでそれで代金を払おうとしたら、全然足りないらしい。タヒチのコインはバカでかく、ものの千円もそろえたらポケットがガバガバになってしまう。
喉は渇くが町なかの小さな店ではトラベラーズチェックも使えない。やむを得ず便所に入って水を飲んだ。
朝9時になって銀行が開いたので500$ほど両替し、スーパーマーケットへ直行した。もう腹ぺこだったがレストランへ入らなかったのは何も倹約したからではなく、メニューの文字が読めなかったからだ。日本にある「蝋細工」のような気の利いたものはここにはない。その点スーパーなら現物を見て買えるから安心だ。僕はそこでスイカを買ってバスに乗り、海岸線で腹一杯スイカだけの朝食をとった。タヒチのスイカの種は、カボチャの種よりも大きかった。
この国は何でも大きい。

初日はタヒチ本島を一周し、「潮吹き岩」や「ゴーギャン博物館」など、ごく一般的な観光コースを廻った。ホテルに帰り風呂に入ってから、夕食はパペーテの町に出ることにした。
トラックを改造して作った乗り合いバス、「ル・トラック」に乗る。市民の足はもっぱらこれだ。車には持ち主が様々な盛りつけをしていて、この夜僕が乗った車はグラフィックイコライザ付きの大型カーステレオと、外装に派手な電飾を施していた。かかっている音楽はタヒチロック。これを大音量でかけながら、街路灯も道路標識もない幹線道路を、腕に任せて突っ走ってゆく。
タヒチではスピード違反でつかまることはまず無いそうだ。日本のように違反しても危険のないような場所で、違反者を隠れて待っているようなケチな警官もいない。
パトカーは事故が起きたときにやってくるだけだ。しかしその分、交通事故は多いらしい。

パペーテの町に着いた。
港にはマイクロバスやトラックを改造した屋台が数十並んでいる。
クレープの店、ホットドッグにフランクフルト、ピザ、中華料理、フランス料理と…みな脂っこいものばかり。ひととおり喰ってみたいと思ったがそれは無理なのでいちばん綺麗な女の人が作っている屋台へ行く。
その店では炭焼きステーキを売っていた。
同室のMさんと出会い、並んで座る。ステーキはボリュームもかなりあり、パンとフライドポテトが付いていた。旨い!とにかく旨いので山賊焼きも追加した。Mさんは糖尿病の薬をのみながら食べていた。
ただ残念ながら、酒類は置いてない。ここの屋台はどこも自粛しているようだ。酒癖の悪い連中が多いのだろう。飲むために、幹線道路を隔ててむこうのバーまで行かなくてはならなかった。
そこでビールを注文すると、緑色の小瓶にタヒチ娘のラベルが貼られた「HINANO」という地元産のビールが、グラスと一緒に差し出された。
このビール、別名「バーボンビール」といってトウモロコシを原料にしている。泡も細かくなかなか旨い。

タヒチつまり仏領ポリネシアは、首都パペーテのあるタヒチ本島を中心にして、ヨーロッパに匹敵する広大な海域に約130の島々から構成される。
島を併せた総面積は埼玉県とほぼ同じだが、人口は15万7千人と、人口密度は8,5分の1である。産業は地味で観光や黒真珠の養殖のほかに椰子油の生産など、貿易収支は超赤字国であるにもかかわらず住民の生活が比較的安定しているのは、宗主国のフランスがムルロア環礁での地下核実験の見返りとして大規模な経済援助を行っているからだ。
美しい楽園風景の裏に、歪んだ政治と経済が横たわっている。

タヒチ到着3日目は、あのモーレア島に向かう。
本島の西にあり、夕陽に描き出されるシルエットは素晴らしい。映画「南太平洋」の舞台となった島で「バリハイの島」として有名だ。世界一島影の美しい島ともいわれる。
パペーテ港から約1時間、島は次第にそのデティールを明確にしてきた。浜辺に立ち並ぶ無数の椰子の林。ライトグリーンの山肌。深い海の碧とのコントラスト。ほんとうに「美しい」と思った。



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