◆あんな話こんな話◆ 来田淳

仕事の話
情報誌の廃刊から新しいビジネスへ

80年代のはじめ、僕は京都で地元の高額所得者向けにダイレクトメールマガジンを出していた。
なぜ高額所得者なのかというと、広告が取りやすかったからだ。創刊時のエピソードについてはまたの機会に書こうと思っている。
季刊で発行部数は約11,000部、京都市在住の年収一千万円以上の家庭にはほぼいきわたっていた。
だけど高所得者でもない自分が、ベンツやBMWの広告を作って載せることに、いつも少なからず抵抗感とストレスを覚えていた。

この手の情報誌では先駆けで殆ど類がなかったため、最初の頃は面白いくらい広告が取れた。でもやがて大手出版社や、参入障壁が低く現行事業に相乗効果が見込まれる異業種が、競合する情報誌を創刊し(※1)、次第にこちらの売り上げも低下していった。発行も遅れがちになってきたところへ、ある情報産業大手の子会社が同種の情報誌の近畿版を創刊するという情報を得たため、87年、16号まで出していたが、これを機に廃刊することにした。

某社が出す近畿版は、高所得者向けの商材を持ち近畿圏内に本社を置いて、そこを商圏とする企業しか広告を出すメリットがないため(うちの場合は大企業の地方支店レベルの決済で出稿が可能だった)おそらく長くは続かないだろうと思っていたが、それでも広告主の一時的な心変わりで、停滞しているこちらの営業活動にダメージを与えることは目に見えていたため、回復不能な状況に陥る前に手を引いた。(※2

廃刊した後も収入源を絶やすわけにはいかないので、廃刊前に「DMバス」というサービスを始めた。
情報誌の面付けから思いついたDMハガキの乗り合いバスだ。当時カラーのDMハガキを一回作るには、十万円以上の費用がかかった。これを、印刷の時期を合わせて複数の店が同時に刷ることで、大幅なコストダウンを図るというもの。原稿の制作費も副収入になり、スタッフが少ないながらも食いつないだ。
だけどそれもやがて印刷会社がシステム的にやりはじめ、納期・料金の両面で太刀打ちできなくなった。
また僕自身、食っていくだけのこの仕事にやりがいを感じなくなってきていた。

そんな春の夜、ひとりでデザイン誌を見ていて、ふとある広告に目がとまった。その広告は、様々な種類の桜を、イラストで一面にあしらったものだった。
「これだ!」と思って僕は立ち上がった。
写真のライブラリーは沢山ある。でもイラストレーションのライブラリーはない!(※3)
その翌日から、心当たりのデザイン会社に対しアンケート調査を開始した。
需要はあった。手ごたえは十分だった。

イラストの注文制作は、まず作家を探し交渉することから始まり、打ち合わせし、何度も描き直し、クライアントのOKを得てやっと納品できる。途中で気に入らないからとキャンセルになることもある。その度に皆が時間と精神コストを浪費していたわけだ。
たしかに特殊なテーマのものは注文制作でないと対応できないだろう。だけど実際に印刷物に使用されているイラストレーションを見ると、半分以上がストックでも代用可能だと推察できた。

イラストレーションのストックとその著作権の貸し出し業務は、クライアントと作家の双方にまたがるこれらの問題を一気に解決するシステムだった。
イラストレーターにとっても、時間があるときにストック用のものを描きためておき、後々それが収入に結びつく。
話は決まった。あとはやるだけだ。これはビッグビジネスになるだろう。商圏も京都だけでなく全国だ。組織もこれまでのような個人商店ではなく法人成りが必要だ。「有限」でなく「株式」にしよう。しかし、金がない。

そこで日経新聞社に連絡し、取材を受けて新規事業のビジネスプランを語り、その翌日の日経新聞全国版に四段抜きで載った記事を銀行に見せて、1,000万円の融資を受け、法人「株式会社アートバンク」を設立した。

日経新聞の反響は大きかった。
掲載されたその日から、何人ものイラストレーターの方々から電話を頂いた。
開業の準備を進めていくうちに、いろんなことがわかってきた。
まずイラストレーターの多くは業界で、その存在の基盤をなす著作権すら十分に守られていないことがわかった。
原画は返してくれない。印刷見本はもらえない。他人の仕事の真似を要求される。違った用途に使われても追加料金が出ない。何年使われても「スポンサーが気に入ってるから」の一言で片付けられる。クレジットも入れてくれない。文句を言えば仕事を干される。・・・
その昔、僕もイラストレーターを目指していた時期があった。こんな不条理は絶対に許されるべきではない。
「やり甲斐のある仕事だ」と、僕はワクワクした。
これからイラストレーターは、その有名無名を問わず、作品の著作物としての価値に応じたPeyを得るのだ。

1988年の7月、最初のカタログが出た。
と言っても僅かA4判16頁で掲載点数も255点。つまりこれだけの作品数で業界に名乗りを挙げたわけで、お客様に来ていただいてもほかに見せるものが無かった。
これではいくらなんでもと思い、ある日仕入れに東京へ出かけていたところ、大手広告代理店(後年、判例時報に載る著作権裁判をすることになる相手)の子会社の営業担当者が、カンカンに怒って社に電話をかけてきた。
そのことを聞いて公衆電話から相手にかけなおすと、やっぱり怒っている。
カタログに掲載した作品が、以前同社で某国際企業の広告用に制作したもので今も使っている。うちが金を払って作らせたものを勝手に載せて再利用してそれで金儲けするとはなにごとだというわけだ。(心情的にはわからないわけでもない。しかしその横柄なものの言い方に堪忍袋の緒が切れた)

「作品の著作権はイラストレーターが持っている。あんたこそ継続使用料を払ってんのか!」
これは効いた。

その有名イラストレーターの作品は、過去に仲介会社から本人が15万円で請け負った仕事で、多媒体へのリピート使用の話も聞いていなかったし、当然追加料金も受け取ってはいなかった。仕事の密度と本人の納入単価の実績からみても、その作品が「広告主による買取契約済」と判断される額では到底ない。
その後、同営業担当者からの電話は一本もなかった。

新しいビジネスのルールは反則技で決まる。
それが仮に法律の盲点を突くようなやり方であったとしても、目的が社会正義に照らし、正しければ良いのだ。
こうして出発したベンチャービジネスだったが、結構奥が深く、そう簡単には流れに乗れなかった。
第一に、汎用性の高い作品つまり売れ筋商品を揃えるには、単にイラストレーターが抱えている作品を集めるのではなく、市場のニーズを分析し、それに沿った作品を新たに創出してゆく必要があった。

考えてみれば当たり前のことだがそうしない限り、見込み顧客のデータベースを構築し、印刷費をかけてカタログを作り、販促費や送料まで回収した上で利益を生み出すことはできなかった。
僕らに求められているのは、仕入れに当たっての目利きと、作家に対して的確な指示ができる分析力、そして何よりもアイデアだった。
それにまだまだ市場は未成熟で、「イラストレーションを借りて使う」ということに抵抗感をもつ会社も多く、またイラストレーターの側にもライブラリーに作品を委託することへの抵抗感があった。

だけど世の中の流れは確実に、「イラストはまずストックで」という方向に変わりつつあった。
                 ◆
とまあここまで書いて考えたのだが、これってまともに書くとかなり長くなる。
で、あとは追い追い加筆改稿していくとして、十年ばかりワープしよう。
なんせ一年ぶりの更新だ。冗長になっては申し訳ない。
                 ◆

『日本のイラストレーター1000人』と『日本デザイン書道名鑑』の発行

こうしてアートバンクは浮き沈みしながらも徐々に時流に乗り、21世紀を迎えることになった。
この間無駄であほなことも沢山したけれど、ベンチャービジネス(僕はこの言葉が好きだ)の日常とは「闇夜の藪漕ぎ」のようなもので、ひとつのノウハウを得るために払う代償は後に続く人たちの何倍も大きい。
でもそれだけに、突然視界がひらけ美しい山上の湖に辿り着いたときなど、ことばに出来ないほどの感動を味わうことができる。
たとえその先に道が無くても、拓けばいいのだ。

2000年9月。初めて市販の書籍を出版した。『日本のイラストレーター1000人』と『日本デザイン書道名鑑』だ。
この仕事は思ったより大変で、社内全スタッフ総がかりで一年以上かかり、僕は体重が10キロ減った。
『イラ1000』については、ある同業者から、契約している作家も含めて皆の連絡先がわかるような本をなんで出すのか。またそれを販売しろとはどういう神経をしているのか、と言われた。(その人も今では自分ちの作家探しにこの本を活用している)

作家は囲うものではないしまた囲えない。
作家にとって価値のあるエージェンシーとは、作家の側に立てるエージェンシーだ。ホームページがクリエーターにとって必須のポートフォリオとなりつつある今、作家の連絡先を隠さなければやっていけないようなエージェンシーのビジネスモデルなど先が見えている。
エージェンシーは作家のエージェント(代理人)であり、その仕事は一にコンサルティング、二に販売、三にフォローだ。

同時発行した『デザイン書道名鑑』も時宜を得ていた。
この分野で活動する人々の社会的地位の確立を目標として活動してこられた日本商業書道作家協会の全面協力も思いがけず得られ、協会理事長の平間夢響さんの提案で書籍の名称も決まった。また桑山弥三郎さんや進藤洋子さんなど、全く交流が無かったにも関わらず不思議な縁で素晴らしい制作陣が構成された。
二種類の書籍のチーフデザイナーは甲斐玲子さんだった。

出版に際して幾つかのハードルがあった。
中でも一番は、出版会社でないため取次ぎに口座がなかったことだ。
でも「いい商品さえできれば販路は何とでもなる」と教えてくれたあるギャラリーの社長の言葉を信じ、心配はしなかった。
しかし、発行日の目処がつき、DMで書籍PRのリーフレットとFAX申込用紙を見込み顧客層に向けて一万通送った翌日、知多半島の温泉をめざして走っていた僕は、そろそろ結果を聞こうと社に電話をしたところ、実に申し込みは「ゼロ」だった。

さすがにこの夜は一睡もできなかった。
帰路の東名高速はどんよりと曇り、僕は時速80キロで左車線をトロトロ走りながら、生涯最悪の気分で皆の今後の生活について考えていた。
そして自分の姿は、どう考えても路上生活者だった。

その翌日から、DMによるPRをやめ、編集校正などの作業の傍ら、販路の開拓に全力を注いだ。東京スタッフは、広告代理店や印刷会社をまわって一冊一冊販売予約を取り、美術書コーナーを持つ全国の大手書店での取り扱いや、デザイン業界専門に書籍を販売している業者さんとの提携、PR用Webサイトの立ち上げ、クロネコブックサービス、業界紙への広告出稿など考えられる限りの販売努力を重ねた。
そうこうしているうち、最初の注文がFAXで入った。
岐阜県立図書館からだった。次いで欧州のドイツ大使館からも入った。

一発では売れない。地味な努力が必要なのだと気づき始めていた。
本ができたとき、ある出版社の方もその内容を見て「快挙」だと言ってくれた。
出荷作業はものすごく忙しかったが、楽しい汗だった。
掲載作家の方々から、仕事に結びついたという声を聞くのが嬉しかった。
本は単価を抑えるため二つとも平版でなく輪転機を使用したため2万部できた。そのうち合計約8千部を販売した。
ある書籍販売のプロは、「バブルのときなら完売できたろう」と語っていた。
あの内容のものを出版できたことが快挙ならば、1万円もする本を、出版社でもなく取次ぎに口座もないのにこれだけの部数さばいたことも快挙だろう。

で、次の問題は採算性だった。明らかにコストがかかりすぎていた。
もうひとつ、販売ルートは構築できたが、当初「年鑑」として毎年の発行を予定していたものの、もう一度あれを繰り返すと死者が出ると思った。
最初に自分が死ぬだろう。
だから一回でやめた。
だけどただこのままやめてしまうとなると、あの地獄のような苦労はただ風化を待つだけのものとなってしまう。これを礎として、次のステップに踏み出さなければ何にもならないのだ。

次の方向が定まらず悶々としていたころ、秋山孝さんとお会いした。
とてもポジティブで頭脳明晰な方だ。
「ぼくはあの本が出たとき、これでイラストの流れが変わると思いました。何より京都であれをやったのがすごい。でも來田さんやりっぱなしだからいけない」
的確なご指摘だった。

でももうあんな本は出すべきでない。
また出版業界の趨勢や社会全体の動向をみても、このようにデータベース的な性格を持つ書籍は、もはや書籍という固定メディアでなく、Webを中心とした「ライブメディア」に移行していくことは明らかだった。
「ならばそうしよう」と思った。

『筆文字なび』と『JPネット』への昇華

そこで03年6月、社の番頭米尾勉の積極的な提案によってデザイン書道の業務を受注するサイト「筆文字なび」を立ち上げた。
初注文は宝島社の『上撰美麗年賀状・和』。企画まるごと請け負いヒットして編集長から感謝メールを頂いた。今年のは二冊目。
また、折からの筆文字ブームも手伝って、今年2件のTV取材があった。一回目は二月NHK首都圏ニュースで流れ、放送終了後100本を超える問い合わせ電話が局に入った。次いでこの年末にあり、これは日テレ系「今日の出来事」(11:00PM〜)で05年1月7日に放送予定だ。
ネットからの受注も少ないながら着実に伸びている。

そして今年の六月、「イラストレーターズJPネット」を立ち上げた。
先に述べたようにイラストレーターにとって自身のホームページは今や必須のポートフォリオ。でも立ち上げただけでは誰も見にきてくれない。得意分野別に検索できるデータベースサイトは誰からも待ち望まれていた。
これは直接的には儲かる構造になっていないがデータベースとしてのバリューに比例して企業からのアクセスが増え続けているため、間接的にはプラスに作用している。
なんといっても店の前は賑やかであるにかぎる。

そしてつい数日前、あるイラストレーターの方からこんな嬉しいメールを頂いた。

「はじめまして。
こんな、素晴らしい検索サイトがあるとは、知りませんでした。
【イラストレーターの検索】への登録を お願いいたします。」

いい新年になりそうだ。m(^^)m

皆様からのご意見ご感想お待ち致しております。
また更新情報をご希望の方は下記までご連絡ください。
[來田淳直行メール]