今夜はタヒチ祭があるというのでディナーでの酒は控えめにして、撮影にいいポイントをとった。
祭りに備え3時間ほど前から地元の女性達が集まり、刈ったばかりのティアレの花を床に盛り、レイを作っている。甘い花の香りがホール全体に満ちていた。
時間が近くなるとどこからともなく人が集まってきた。朝、空港で離ればなれになった日本人のメンバーたちもやってきた。
そして乾いた太鼓のリズムがホールに響き渡る。そのリズムに合わせ7〜8組の男女が緞帳の陰から現れる。
パペーテの土を踏んで以来、何度となくこの踊りの歓待をうけたが、この夜のタヒチアンダンスは旅の終わりを飾るにふさわしく、ひときわボルテージが高まっていった。
腹に響き渡る弦・打楽器のリズム。光る褐色の筋肉。艶めかしく肌を伝う汗。まだ踊り慣れない少女たちも混じって、こんなに緊張し、指先までも真剣な姿を見たのは初めてだった。
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やがてショーは終わり、照明がかわってホールはディスコとなった。
待っていた地元の若者たちに観光客も混じって踊りまくる。
ボラボラの地中海クラブのホールは、地元の人たちの交流の場ともなっていて、とくに今夜のような土曜には、みんな手にしたばかりの給金を持って集まってくる。
僕は額から吹き出す汗を拭いながらコテージに戻り、パトローネを抜き、カメラをケースに仕舞った。そして本日2本目の煙草に火を付け、窓を開ける。
ディスコからあふれ出した人々は夜の浜辺で酒を飲み、恋人たちは抱き合い、笑い声と激しいビートは遠く環礁の彼方へと吸い込まれてゆく。
僕の仕事は終わった。
長い一日とうまい煙草…。
喉が渇いてきたので、再び賑やかなホールへ向かう。
カウンターに肘をついてビールを注文した。
ビールはいつものヒナノだ。もう何杯飲んだだろう。帰るまであと何本飲めるだろう。クリームのような気泡を鼻の頭にまでつけながら一気に飲み干す。
カーンと頭に抜ける爽快感、脳の回線がまた切れる音を聴きながら、思わずイキそうになる。
となりのオッサンが、タヒチ語で話しかけてきた。どうやらどこから来たのか訊いているらしい。日本から来たということを説明するのに約5分かかった。彼は日本という国を知らなかった。
そうこうしているうちにもう一人、「ワシにも喋らせろ」といった風情で、映画「1941」のベルーシによく似た男が割り込んできた。英語もマトモに話せない僕にとって、フランス語は皆目、ましてタヒチ語ともなると宇宙人と話しているようなものだ。幸い彼は英語が話せたが、こんどはこちらの語学力がついていかなくなり、ギブアップした。そして遂に歴史に残る、タヒチ語と関西弁の会話が始まったのである。
お互い言葉が通じないとなると不思議なもので、言語で相手を理解するより相手のハートを理解しようと努めるようになる。その結果、ほんの数分前に出会ったばかりの見知らぬ者同士が、肩を抱き合う何年来の友となってしまった。
そこへカウンターを滑らせてもう一本ヒナノが到着する。
2メートルほど向こうでフットレストに足を載せて、第三の男が「俺のおごりだ」と手でサインを送る。男は安岡力也にそっくりだった。
彼等と話しているうちに、僕の心はいつしか水を得た魚、川に帰った河童のようになっていた。
ここはいつか来た場所だ。知っている。僕は帰ってきたんだ。
そう思うとやたら懐かしくなって、何度も彼等と握手を繰り返した。
もうすぐ別れの時間だ。
「My friend . You are my friend」
と言って、ひとりひとりと抱き合う。
「Good-by my friend」
ベルーシが言った。 |
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それから、村長に感謝を述べ先に予約してあったマララホテルに帰り、水上のバンガローで泥のような深い眠りに就いた。
[後書き]
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この紀行記は、1986年6月にタヒチ観光局主催で行われた招待旅行の記録をまとめたもので、同年秋、当時僕が京都で出していた情報誌に掲載した文章を20年ぶりに加筆改稿したものです。
そのままの文章で流したかったのですが、いくら何でも20年も経てば人間少しは成長するもので、基本的には何も変わらないものの、表現や状況説明などあちこち手を入れざるを得ませんでした。
副題は言うまでもなく、S.キューブリック「Dr. StrangeLove(邦題:『博士の異常な愛情』)」のパロディで、これは史上最も長い映画タイトルと言われたものです。
今日、こうして原稿を書き終えたあと僕が思うのは、添乗員の方々のご苦労です。
特にUTAフランス航空の中里さんには、僕の生まれつきの単独行動によって終始多大な気苦労をお掛けし、ほんとうに深くお詫び申し上げます。ついついその寛大さに甘えてしまいましたが、お陰様で仕事だけは完璧に終えることができました。
この紀行記を、現エールフランス日本支社中里準さんに捧げます。 |
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